電気が変えたテネシー・バレー:ニューディールのTVAからオークリッジ、そして現代のEVへ

オークリッジを訪れた翌日、同じテネシー州にあるノリス・ダムとメルトン・ヒル・ダムを訪れました。目の前に広がるのは、静かな湖と緑の山々。一見すると、どこにでもある美しいダム湖の風景です。

しかし、少し歴史をたどってみると、この風景はオークリッジ、第二次世界大戦、そして現代の電気自動車へとつながっていきます。

ニューディール政策による公共事業、水力発電、オークリッジのマンハッタン計画、原子爆弾、そして現代のEV。

一見するとまったく別の時代の出来事に見えますが、その長い歴史をつなぐ重要な存在の一つが、テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority、TVA)によって築かれた電力インフラでした。

 

1933年:ニューディールとTVA

1930年代のアメリカは、世界恐慌のさなか。テネシー・バレーでは、洪水、土壌浸食、農村の貧困、電化の遅れなど、多くの問題を抱えていました。

 

1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として、テネシー川流域開発公社(TVA)が設立されます。

TVAが目指したのは、洪水を防ぎ、川の航行を改善し、水力発電によって電気をつくり、その電力を農村や産業に届けること。さらに、農業や森林の管理などにも取り組み、地域全体を近代化していこうとしました。

つまりTVAは、単にダムを造って発電する事業ではなく、「電気と水を一体的に管理し、地域の生活そのものを変える」という、大規模な地域開発の試みでした。

TVAはその後、テネシー川水系の統合的な開発を進め、最終的には32のダムを含む大規模な水系開発を行っていきます。そして、このとき整備された電力インフラが、わずか10年後の国家プロジェクトを支えることになります。

ノリス・ダム:TVAの最初の一歩

その最初の大きな一歩となったのが、ノリス・ダムです。建設は1933年10月に始まり、1936年に完成しました。TVAが建設した最初のダムです。

現在、ダムの上流に広がるノリス湖は、モーターボートなどのウォータースポーツが楽しめる、風光明媚な場所です。しかし、この湖はもともと自然に存在していたのではなく、人間が川をせき止め、土地の姿を変え、巨大な貯水池として作り上げたものです。

そこには、20世紀のアメリカを象徴する考え方、自然を科学と技術によって管理し、生活を向上させるという考え方がありました。

 

そしてオークリッジへ:電力が原子爆弾を支えた

ノリス・ダムとオークリッジは、実は深くつながっています。第二次世界大戦中、アメリカ政府はオークリッジにマンハッタン計画の巨大な施設群を建設しました。そこでは最先端の核物理学だけでなく、莫大な量の電力が必要とされました。特に、原子爆弾に使うウランを濃縮する工程には、膨大な電力が必要でした。

オークリッジがマンハッタン計画の拠点の一つとして選ばれた理由には、TVAの水力発電によって大量の電力を安定して確保できることもありました。アメリカ合衆国国立公園局(National Park Service, NPS)によると、1943~45年には、オークリッジで消費された電力はアメリカ全体の発電量の約7分の1に達しました。

1930年代のニューディール政策によって整備されたTVAの電力インフラは、わずか10年ほど後には、オークリッジで進められた極秘の核開発を支える基盤となっていたのです。

原爆をつくったのは科学者だけではなかった

オークリッジでマンハッタン計画について学ぶと、原子爆弾が科学者だけによって生み出されたものではないことが分かります。巨大な施設を運転するための人員、電力、水、道路、鉄道、住宅など、巨大な都市を支えるインフラが必要でした。NPSによれば、オークリッジの人口は、当初予定されていた約13,000人から、戦争が終わるころには75,000人を超えるまでに膨れ上がったといいます。

原子爆弾の開発は、最先端の科学だけでなく、巨大な都市、産業、そしてインフラを総動員する国家的プロジェクトでした。そのインフラの一部を支えたのが、1930年代のニューディール政策によって生まれたTVAと、その後整備された電力網でした。

そして1945年8月。オークリッジのY-12施設などで濃縮・処理されたウランの一部が、広島に投下された原子爆弾「リトル・ボーイ」に使われました。

1930年代、テネシー・バレーの洪水や貧困を解決するために始まったTVAの電力開発。その電力インフラは、わずか10年余りの後、オークリッジの極秘核開発を支えることになります。ノリス・ダムから始まったテネシー・バレーの電力開発は、オークリッジを経て、日本へとつながっていたのです。 

メルトン・ヒル・ダム:TVAは次の時代へ

ノリス・ダムの後、TVAはさらに多くのダムと発電施設を建設していきます。その一つが、オークリッジのすぐ近くにあるメルトン・ヒル・ダムです。建設は1960年に始まり、1963年に完成。ノリス・ダムより約30年後のダムです。1964年には発電が始まりました。

1930年代のノリス・ダムは、ニューディールの理念を象徴する存在でした。洪水を抑え、農村を電化し、地域を近代化する。電気そのものを人々の生活に届けることが、大きな課題だった時代。一方、メルトン・ヒル・ダムが完成した1960年代には、アメリカ社会はすでに大きく変わっていました。電力は生活や産業に欠かせないものとなり、TVAの役割も、時代とともに変化していきます。そして現在、この場所ではさらに新しいエネルギーの姿を見ることができます。

メルトン・ヒル・サステナブル・レクリエーション・エリア(Melton Hill Sustainable Recreation Area)には、太陽光発電設備やEV充電ステーションが整備されています。大規模な発電所ではありませんが、再生可能エネルギーを利用し、電気自動車の普及も意識した施設です。

1930年代には、電気をまず人々の生活に届けることが大きな課題でした。そして現在は、電気を環境に配慮してどのようにつくり、どのように使うのかという次の課題に向き合っています。ノリス・ダムからメルトン・ヒル・ダムへ。そして水力発電から太陽光発電、EVへ。テネシー・バレーの「電気の歴史」は、終わったのではなく、形を変えながら現在も続いています。

 

そして、フォードが再びテネシーへ

ここで、さらに100年以上前の話に戻ります。1910年代のアメリカでは、すでに電気自動車が走っていました。トーマス・エジソンは電気自動車用バッテリーを研究し、ヘンリー・フォードもエジソンとともに電気自動車の可能性を考えていたとされています。しかし、当時はバッテリーが重く、航続距離にも限界がありました。一方、フォードのT型フォード(Model T)は大量生産によって価格を下げ、ガソリン車がアメリカの自動車市場を支配するようになります。電気自動車の夢は、いったん歴史の表舞台から消えていきました。

ところが約100年後、フォードは再びテネシーで電気自動車とバッテリーの生産を計画します。西テネシーのブルーオーバル・シティ(BlueOval City)は、当初、フォードとSK Onによる巨大なEV・バッテリー生産拠点として計画されました。TVAも、この大規模な製造拠点に必要な電力インフラを整備する役割を担っていました。

しかし、その計画はその後、大きく変わります。EV需要の変化などを受けてフォードはEVトラックの生産開始を延期し、2025年にはSK Onとの合弁事業の解消も決定。現在は、フォードがこの拠点で大型ガソリン車を生産する一方、敷地内のバッテリー工場はSK Onが運営する方向となっています。

つまり、100年前に始まった「電気自動車への挑戦」が、そのまま一直線に現在へ戻ってきたわけではありません。むしろ、ここにもアメリカのエネルギー史の特徴が表れ、電気自動車からガソリン車へ。そして再びEVへ。しかし、EV化もまた市場や技術、政策によって方向を変えています。

フォードとエジソンからオークリッジ、そしてEV

ここまでたどってくると、ノリス・ダムからオークリッジ、そして現在のEVまで、一つの大きな流れが見えてきます。20世紀初頭、トーマス・エジソンとヘンリー・フォードは電気自動車の可能性を考えていました。しかし、ガソリン車が自動車の主流となる一方で、電力は別の形でアメリカ社会を変えていきます。

世界恐慌に対するニューディール政策では、失業者に仕事を提供するとともに、CCC(市民保全部隊)によって若者を動員し、森林、道路、公園などの整備が進められました。そして、ダムや発電所などの大規模な公共インフラも建設され、TVAはその象徴的な存在でした。

そして、そこで築かれた電力とインフラは、第二次世界大戦になるとオークリッジのマンハッタン計画を支えました。地域の生活を豊かにするためにつくられた電力と技術が、戦時には原子爆弾という、かつてない破壊力を持つ兵器の開発にも利用されたのです。

戦後・冷戦を経て、ニューディール期から発展してきた電力インフラには、さらに発電所や送電網が加えられ、テネシー・バレーの電力システムは拡大していきました。

そして現在、その長い電力インフラの蓄積は、新しい製造業や電動化を支える基盤の一つとなっています。フォードの西テネシーでのEV・バッテリー生産計画は大きく方向転換しましたが、TVAの電力網が、この地域の巨大な製造拠点を支えるという構図は変わりません。

エジソンとフォードが思い描いた「電気の未来」から、恐慌、ニューディール、戦争、原爆、そして再びEVへ。ただし、その道のりは決して一直線ではありませんでした。電気は、生活を変え、産業を変え、戦争を変え、そして今また、自動車を変えようとしています。

ノリス・ダムの静かな湖面の向こうに見えていたのは、電力をめぐるアメリカ100年の歴史。そこには、暮らしを変え、戦争を支え、そして今また新しい産業を動かそうとする「電気」の姿があります。

 

「秘密都市」オークリッジを訪ねて:マンハッタン計画、原子爆弾、そして日本とのつながり

テネシー州オークリッジを訪れました。オークリッジと聞いて、まず思い浮かぶのは、第二次世界大戦中のマンハッタン計画です。1942年、アメリカ政府はテネシー州東部の山あいにあった農村地帯を大規模に取得し、そこに巨大な秘密都市を建設しました。目的は、原子爆弾の開発に必要なウラン濃縮などを行うこと。当時、この街は「シークレット・シティ(秘密都市)」と呼ばれていました。

今回訪れたのは、アメリカ科学エネルギー博物館、K-25歴史センター、マンハッタン計画国立歴史公園ビジターセンター、そして国際友好の鐘です。

「秘密都市」は、いったいどのようにしてつくられ、そこで何が行われていたのでしょうか。そして、戦争が終わった後、オークリッジはどう変わっていったのでしょうか。

 

農村だった場所に、突然つくられた都市

アメリカ科学エネルギー博物館(American Museum of Science and Energy)では、科学やエネルギーだけではなく、オークリッジの歴史、マンハッタン計画、オークリッジ国立研究所、原子力利用などについても紹介されています。

興味深いのは、オークリッジが最初から科学都市として存在していたわけではないこと。1942年、アメリカ政府は第二次世界大戦下、マンハッタン計画のため、東テネシーの広大な土地を接収。戦争という非常時を理由に、それまで何世代にもわたって暮らしてきた農家や住民、約3,000人が立ち退きを迫られました。

政府は土地を取得すると、そこに道路、住宅、学校、病院、食堂、商店、娯楽施設、そして巨大な工場と研究施設を次々と建設していきます。わずか数年で、農村だった場所に何万人もの人々が暮らす都市が出現します。オークリッジは、自然に成長した町ではなく、戦争の目的のために国家が短期間でつくり上げた町でした。

「秘密都市」の中で何が行われていたのか

K-25歴史センター(K-25 History Center)を訪れると、この町が単なる研究都市ではなかったことが分かります。オークリッジでは、原爆に必要な核物質を作るため、複数の巨大施設が建設されました。Y-12では電磁分離法、K-25では気体拡散法によってウラン235の濃縮が行われ、X-10ではプルトニウムの研究・生産が進められました。

オークリッジは、原爆そのものを組み立てる場所というより、原爆に必要な核物質を大量に生産するための巨大な工業都市でした。しかし、そこで働いていた人々の多くは、自分たちが何を作っているのか知りませんでした。

 

「知らないこと」が秘密を守った

マンハッタン計画では、「Need to know(知る必要がある者だけが知る)」という考え方が徹底されました。一人ひとりが知るのは、自分の仕事に必要な情報だけ。工場で計器を監視する人は、何を測定しているのかを知らない。機械を操作する人は、その作業が最終的に何につながるのかを知らない。

Y-12などでは、多くの女性労働者が高度な機器を操作していましたが、自分たちがウラン濃縮に関わっていることを知らないまま働いていた人もいました。秘密を守るための警備や検問だけでなく、ポスターや標語によって、「余計なことを話さない」「必要以上に知ろうとしない」ことが愛国的な行動として求められました。

これは単なる情報統制というより、戦時下の国家が、住民の日常生活そのものに秘密保持を組み込んだ仕組みだったと言えます。その結果、オークリッジでは、「原爆を作るために働いている人々が、自分たちが原爆を作っていることを知らない」という、特殊な社会が成立していました。

1945年8月6日、秘密が明らかになった

そして1945年8月6日。広島に原子爆弾「リトル・ボーイ」(Little Boy)が投下され、トルーマン大統領が原爆について発表します。そのニュースによって、オークリッジで働いていた多くの人々は初めて、自分たちの仕事が何につながっていたのかを知りました。巨大な秘密の一部だったそれぞれの仕事が突然、「原子爆弾」という一つの目的につながっていたことを知る。この瞬間を考えると、「シークレット・シティー」という言葉の意味がさらに重く感じられます。

 

原爆で終わらなかったオークリッジ

戦争が終わればこの巨大な秘密都市も役割を終えるはずでしたが、オークリッジは消えませんでした。戦時中に集められた科学者や技術者、巨大な研究施設、そして蓄積された科学技術は、戦後のアメリカの研究基盤として残されます。

冷戦が始まると、オークリッジは核兵器だけでなく、原子炉、核物理、放射性同位元素、材料科学などの研究拠点へと発展していきます。戦争のためにつくられた「秘密都市」は、冷戦時代の科学技術を支える重要な都市へと変わっていきます。

「秘密」は戦争が終わっても消えなかった

戦争が終わったからといって、「秘密」がすぐに消えたわけではありません。戦時中、オークリッジはフェンスとゲートハウス(検問所)によって外の世界から隔てられていました。働く人たちは身分証を提示し、施設に入るたびに厳しいチェックを受けました。

1949年にはオークリッジの街そのものは一般に開かれましたが、K-25やY-12などの重要施設は依然として厳重に管理されていました。街が開かれても、科学と国家安全保障に関わる場所にはまだ「境界」が残っていました。そして、この「境界」を考えると、オークリッジにはもう一つの興味深い歴史が浮かび上がります。

本当に潜んでいた「スパイ」

マンハッタン計画では、情報を細かく分けて管理する「コンパートメント化」が徹底されました。誰もがプロジェクト全体を知ることはなく、場所や情報へのアクセスも厳しく制限。それでも、ソ連はマンハッタン計画の情報を入手します。オークリッジと直接結びつく人物として知られているのが、ジョージ・コバル(George Koval)です。

コバルはアメリカ生まれで、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍に入隊。そして、マンハッタン計画を支える特殊技術部隊(Special Engineer Detachment)の一員としてオークリッジに勤務しました。彼の職務は、放射線の安全管理に関わるもので、通常の作業員よりも広い範囲の施設や情報に接することができました。

コバルは、オークリッジで扱われていたポロニウムに関する情報などをソ連側に伝えていたとされています。彼が特に注目されたのは、「秘密を守る側の人間として、内部から情報を持ち出していた」という点です。コバルは戦後1948年にソ連へ渡り、スパイ活動は1995年アメリカ政府による機密指定解除がされてはじめて、公になりました。

オークリッジを越えて広がったスパイ網

コバルだけがマンハッタン計画の情報をソ連へ伝えたわけではありません。ドイツ生まれの理論物理学者クラウス・フックス(Klaus Fuchs)は、イギリスの核兵器開発計画を経てマンハッタン計画に参加。1944年にはコロンビア大学でガス拡散法によるウラン濃縮の研究に加わり、その後ロスアラモスへ移ります。そこで核兵器に関する重要な情報をソ連に渡していました。1950年に逮捕され、スパイ活動で有罪となっています。

また、ロスアラモスでは、デイヴィッド・グリーングラスを通じて、ユリウス・ロゼンバーグが関わったソ連のスパイ網にも情報が流れていました。マンハッタン計画の「秘密」は一つの街に閉じていたのではなく、複数の経路を通じてソ連へ渡っていました。

 

1949年、ソ連はアメリカの予想より早く最初の原爆実験に成功します。そして、ここからオークリッジの歴史は、もう一つの段階へ入っていきます。冷戦が始まると、オークリッジは核兵器だけでなく、原子炉、核物理、放射性同位元素、材料科学などの研究拠点へと発展していきます。戦争のためにつくられた「秘密都市」は、冷戦時代の科学技術を支える重要な都市へと変わっていきます。

そして、現在のオークリッジ国立研究所へ

冷戦も終わり、オークリッジはどうなったのでしょうか。現在、その科学的遺産を引き継いでいるのが、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory – ORNL)です。

ORNLでは現在、原子力だけでなく、中性子科学、先端材料、エネルギー、スーパーコンピューター、AI、医療など、幅広い最先端研究が行われています。一方で、ここは普通の公開された研究施設ではありません。現在も国家安全保障に関わる研究が行われているため、施設へのアクセスには厳格な管理があります。外国籍の研究者や訪問者も受け入れていますが、事前の手続きや承認が必要で、パスポートやビザなどの確認も求められます。

このことを考えると、日本人物理学者の山田克哉氏がORNLで研究していた際の経験は、とても興味深いものです。山田氏は、ORNLで博士論文に関わる研究をしながら、研究所の図書館資料を利用しようとした際、アメリカ国籍を持たないことを理由に閲覧できなかった経験を紹介しています。(https://diamond.jp/articles/-/375949

原爆 → 核エネルギー → 冷戦 → 原子力研究 → 中性子科学 → AI・スーパーコンピューター → 医療・材料・エネルギーという長い科学技術の系譜が、オークリッジにはつながっています。戦争のためにつくられた科学技術が、戦後には別の目的へと広がり、現在では私たちの未来に関わる研究へと発展している。けれども、その研究を支える場所には、今も国家安全保障というもう一つの側面があります。

「秘密都市」から「友好の鐘」へ

最後に訪れたのが、国際友好の鐘(International Friendship Bell)でした。かつてこの町では、国家の最高機密を守るため、人々が「知らないこと」を求められていました。

そのオークリッジで、今度は日米の友好と平和を願う鐘が鳴らされています。この鐘は、1993年に京都で鋳造され、1996年にオークリッジに奉献されました。鐘には、「真珠湾1941年12月7日」「広島1945年8月6日」「長崎1945年8月9日」「終戦の日1945年8月14日/15日」が刻まれています。1990年代にこの鐘が設置される際には、かなりの反対運動があったといいます。広島・長崎への原爆投下に対する「謝罪」と受け取られることへの反発もあり、激しい議論を経て、全額民間からの寄付によってようやく設置にこぎつけました。当初、鐘を鳴らすことにも制限がありましたが、地元の中学生が「平和の象徴なのに自由に鳴らせないのはおかしい」と市議会に制限解除を請願し、誰でも自由に鳴らせるようになったといいます。

アメリカでは、原爆投下を戦争を終結させ、多くの命を救うために必要だったと考える人も少なくありません。一方、日本にとって広島と長崎は、今もなお多くの人々の人生に影響を残す、極めて大きな惨禍の記憶です。日米両国には異なる記憶があります。かつて「秘密」を守るために人々を隔てていたオークリッジに、今は日本からやってきた鐘があり、その異なる記憶を一つの場所につないでいます。

原爆を生み出した「秘密都市」は、冷戦を経て、現在では最先端の科学研究が行われる場所へと変わりました。そして最後に出会ったのが、科学の勝利を祝う記念碑ではなく、戦争の記憶を抱えながら、平和と友好を願う鐘だったことに、大きな意味を感じました。記憶の違いを抱えたまま、私たちは次の時代へ何を残していくのか。オークリッジの鐘は、現在、そして未来を生きる私たちに、静かに問いを投げかけているように思えました。

星薬科大学を訪ねて:星一がアメリカから持ち帰った「近代」

東京滞在中、品川区にある星薬科大学を訪ねました。静かな住宅街の中にあるキャンパスには、歴史を感じさせる大講堂や博物館、植物園があります。東京の街の中にありながら、どこか異国的な雰囲気を持つ空間でした。

 

星薬科大学の創立者・星一について、息子である作家・星新一が書いた二冊の本があります。読み進めるうちに、明治から昭和へ向かう時代に、若くしてアメリカへ渡り、そこで青春を過ごした星一が、帰国後の日本で何を実現しようとしたのかに興味をもつようになりました。

アメリカで見た「新しい社会」

星新一が父・星一を描いた『明治・父・アメリカ』には、若き星一がアメリカで過ごした日々が描かれています。

福島県の農村から上京して苦学した星一は、1894年、20歳で単身アメリカへ渡ります。貧しさの中で住み込みで働きながら英語を学び、行商や翻訳で大学の学費を稼ぐ。克己心と周到な計画で一つずつ困難を乗り越え、やがてコロンビア大学で政治経済学の修士号を取得します。

さらに新聞事業を起こし、『ジャパン・アンド・アメリカ』を創刊。人脈を広げ、新しい知識や思想を吸収しながら、自分で次の道を切り開いていきました。

星一が見たのは、当時の日本とは異なる社会の姿でした。身分や出自だけではなく、個人の能力と行動によって道を切り開くこと。自分で考え、人とつながり、新しいことに挑戦すること。そして、科学や知識を実業へ結びつけていくこと。

明治維新から半世紀も経っていない日本も、欧米の制度や技術を急速に取り入れていました。しかし、制度が近代化しても、人間関係や組織のあり方まで一気に変わったわけではありません。

アメリカで身につけた合理的な考え方や自由な発想を日本に持ち帰った星一は、帰国後、さまざまな壁にぶつかります。

「アメリカではできるのに、なぜ日本ではできないのか」

星一の生涯を追っていると、そんな思いが、次第に強くなっていくのが見えてきます。

星製薬:薬を「産業」に

1905年にアメリカから帰国、星一が次に挑んだのが製薬事業でした。薬は人の生命に直接関わります。しかし、近代的な製薬業をつくるには、薬を仕入れて売るだけでは足りません。科学研究、製造設備、品質管理、販売網、そして、それを支える人材が必要です。

星一は、薬を単なる商売ではなく、科学と産業を結びつける事業として発展させようとしました。当時の日本では、まだ先進的な発想でした。

そして、星一は人を育てることにも力を注ぎます。自分一人の才覚で事業を大きくするのではなく、科学を学んだ人材を育て、日本の薬学そのものを底上げしようとしたのです。後の星薬科大学につながる教育への情熱も、ここから生まれていきます。

そんな星一の溢れるエネルギーと先進的な考えに共鳴し、支援する人物がいました。後藤新平です。

星一と後藤新平

後藤新平は、台湾総督府民政長官として台湾統治に関わり、その後、南満洲鉄道、いわゆる満鉄の初代総裁となった人物です。前回は、鉄道を通して日本の大陸進出を見ました。しかし、後藤新平を「鉄道の人」とだけ捉えると、その人物像の一部しか見えてきません。

後藤の出発点には、医師としての経験がありました。衛生、医療、都市計画。人間の身体と、それを取り巻く社会環境を、科学と技術によって改善していこうとする発想です。台湾では衛生行政や都市インフラの整備に取り組み、その経験を満鉄での都市建設や産業政策にも広げていきました。

一方、星一は薬を通して科学と産業、人材の育成を考えました。後藤新平が衛生や都市、鉄道を通して社会そのものを設計しようとしたのに対し、星一は製薬という産業を通して、日本に科学と合理的な経営を根づかせようとした人物だったともいえます。

一見すると異なる二人ですが、そこには「科学と合理性によって、日本社会を変えていく」という共通する思想が見えてきます。そして、この二人を考えるとき、避けて通れない場所があります。台湾です。

 

台湾のアヘン専売という現実

1895年、日本が台湾を統治するようになると、アヘンは重要な統治課題となります。

台湾総督府はアヘンを専売制のもとに置き、許可を受けた者にだけ販売する制度を導入します。表向きの目的は、アヘンを一気に禁止するのではなく、管理しながら徐々に使用を減らしていくことでした。しかし、そこにはもう一つの現実がありました。

アヘン専売は、台湾総督府にとって大きな財源にもなったのです。つまり、「人々の健康を管理する」という衛生政策と、「国家が薬物を管理して利益を得る」という財政政策が、同じ制度の中に存在していました。

ここに、後藤新平が進めた「科学的な統治」の複雑さがあります。衛生も、医療も、薬も、そしてアヘンさえも、国家が管理する対象になっていったのです。薬は、人を救うものですが、国家が薬を管理すると、それは政治にも、産業にも、財政にもなります。

そして台湾で行われたこの政策は、後の日本の製薬産業を考えるうえでも、無関係ではありませんでした。

星一がぶつかった日本

星一がアメリカから持ち帰ろうとしたものは、科学を重視すること、人を育てること、合理的に経営すること、そして新しい産業をつくることでした。しかし、それらは帰国した日本で、必ずしも素直に受け入れられたわけではありません。

官僚、政治家、財界、そして既存の人間関係。さまざまな力が絡み合う日本社会の中で、星一の合理的な発想や自由な行動は、ときに大きな摩擦を生みました。

星新一の『人民は弱し官吏は強し』を読むと、星一が官僚や財界との対立に巻き込まれ、何度も窮地に追い込まれていく姿が浮かび上がります。アメリカで学んだ「合理的に考える」という姿勢が、そのまま日本で通用するわけではなかったのです。

しかし、ここで一つ、さらに複雑な問題が浮かび上がります。星一は、すべての官僚や既存勢力から孤立していたわけではありません。むしろ、後藤新平との深い関係が、星一の人生に大きな影響を与えていました。

後藤新平と星一

星一は、同じ東北地方の出身であることなどを背景に後藤の知遇を得ました。また、後藤の盟友である杉山茂丸の書生をしていた時期があり、そうした人脈を通して後藤とのつながりを深めていったとされています。後藤新平が持っていた政治的・行政的な影響力は、星一が製薬事業を進めていくうえで大きな支えとなりました。

しかし、そのことが逆に星一を政治的な対立の中へ巻き込んでいくことになります。

星新一は『人民は弱し官吏は強し』の中で、星製薬が政界や官僚との対立に巻き込まれ、企業活動を妨害された経緯を描いています。

そこでは、後藤を支持する勢力と、後藤に反発する勢力との対立が、星製薬をめぐる問題にも影を落としていました。さらに星新一は、内務省には東京帝国大学出身者を中心とする強い学閥が形成されており、後藤も星もその学閥に属していなかったことが一因だったと説明しています。

学歴、官僚組織、政治的人脈、財界、そして個人の能力。近代日本では、それらが複雑に絡み合っていました。そして、その複雑さをさらに深く考えさせるのが、台湾のアヘン問題です。

台湾阿片事件

台湾のアヘン専売を調べていくと、後藤新平と星一の関係について、さらに別の側面が見えてきます。台湾出身の歴史学者・劉明修は、著書『台湾統治と阿片問題』の中で、台湾総督府のアヘン専売と星製薬をめぐる問題を詳しく論じています。

劉の研究によれば、台湾総督府はアヘン専売収入の増加を図るため、アヘン吸食者に販売する阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘に減らし、より高濃度の阿片煙膏を販売するという政策を行ったとされています。

そして、その秘密を維持するため、総督府専売局が、星製薬以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒否したことが、後の「台湾阿片事件」につながったと劉は論じています。

星製薬をめぐる問題は、単なる一企業と官僚組織との対立ではありませんでした。台湾総督府の専売政策、製薬業界、後藤新平の政治的影響力、星製薬、そして政界内部の対立。それらが複雑に絡み合っていたのです。

「科学的統治」の光と影

ここまで見てくると、最初に考えた後藤新平と星一の共通点が、少し違った姿に見えてきます。二人とも、科学や合理性を重視しました。後藤は衛生、医療、都市計画、鉄道を通して社会を変えようとしました。星一は製薬、科学教育、人材育成、企業経営を通して日本を変えようとしました。

しかし、科学や合理性は、誰がそれを管理するのか、何のために使うのか、そして、その利益を誰が受け取るのか。台湾のアヘン専売を考えると、その問いが突きつけられます。衛生政策としてアヘンを管理することと、専売によって国家が利益を得ることは、同じ制度の中に存在しました。そして、その制度の中に製薬企業も組み込まれていきました。

科学は社会を近代化する力になります。しかし同時に、国家が人間の身体や薬物を管理するための強力な道具にもなり得ます。後藤新平を「近代化の功労者」とだけ見るのでも、「植民地支配の官僚」とだけ見るのでも、この人物の全体像は捉えきれないのかもしれません。

星一についても、科学と合理性を信じ、新しい製薬産業を築こうとした一方で、その事業は政治、官僚、専売制度、そして植民地台湾との関係から切り離すことができませんでした。星一の人生を追っていくと、一人の実業家の波乱万丈な人生だけではなく、近代化を急いだ日本が抱えていた矛盾そのものが見えてきます。

「近代化」とは何だったのか

台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任した後藤新平。製薬産業を育てようとした星一。二人を並べてみると、植民地、鉄道、都市計画、薬、衛生、教育という一見別々のものが、一本の線でつながってきます。

鉄道は人と物資を運び、薬は生命を支え、衛生は人と都市を変え、教育はそれを担う人材を育てます。明治以降の日本は、こうした「近代化の装置」を次々につくっていきます。しかし、その近代化は日本国内だけのものではありませんでした。台湾、満洲、中国大陸へと広がる日本の勢力拡大とも、深く結びついていました。

星薬科大学を訪ねたことから始まった今回の旅は、いつの間にか一人の実業家の人生を越えていました。星一は、科学が社会を変える力になると信じ、野口英世を支援し、第一次世界大戦後にはドイツの科学者たちにも私財を投じて援助しました。その中には、ハーバー・ボッシュ法を生み出したフリッツ・ハーバーもいました。しかし、野口もハーバーも、科学の「光」だけを体現した人物ではありません。野口の研究には後世から見て議論のあるものがあり、ハーバーは人類の食料生産を大きく変えた一方、化学兵器の開発にも深く関わりました。

『人民は弱し、官吏は強し』の解説で、後藤新平の孫である鶴見俊介は、星一についてこう書いています。「十九世紀の米国では、アイデアを自由市場に出し、そこで勝ちぬくものがよいという考えによってある程度生きることができたのかもしれない。しかし、日本にもってきて米国ゆずりのその信念によって生きようとしたところに、星一のくいちがいがあった。」

アメリカで見た「近代」を、日本という社会の中でどう実現するのか。そこには、個人の自由な発想と組織の論理、科学と政治、民間の力と官僚制度という、今にも続く問題があります。前回は「鉄道」という線路をたどりました。今回は、「薬」というもう一つの線路です。その先にもまた、近代化と帝国、科学と政治、理想と現実が交差しています。

鉄道は戦争をどう支えたのか:満鉄から華北交通へ、一本の線路をたどって

母の父、私の祖父は、戦時中、国鉄から信号技師として中国へ派遣されました。北京で華北の鉄道に関わり、現地の中国人技術者に信号技術を教えていたといいます。

祖父にとっては、鉄道技術者として与えられた仕事だったのでしょう。しかし、その仕事を歴史の中に置いてみると、一本の信号機の向こうに、日本の近代化、満洲への進出、日中戦争、占領地の統治、そして敗戦と引揚げまでがつながっています。そして、その鉄道のそばには、家族、幼い母や兄弟も暮らしていました。祖父が立っていた一本の線路はどのような時代につながっていたのでしょう。

鉄道から始まった日本の大陸進出

明治の日本にとって、鉄道は単なる交通機関ではありませんでした。鉄道を敷くには、線路だけでなく、橋梁、駅、通信、信号、車両、発電、保線など、巨大な技術体系が必要です。日本は欧米から導入した技術を自国のものとし、やがて大量の技術者を育てていきます。その技術が海を越えたのが満洲でした。

日露戦争後の1906年に設立された南満洲鉄道、いわゆる満鉄は、初代総裁・後藤新平のもとで、単なる鉄道会社を超えた巨大な組織へ発展します。鉄道を敷き、都市をつくり、病院や学校を整え、炭鉱や製鉄、電力、調査研究まで手がけます。

鉄道は、産業を育てる「近代化の装置」であると同時に、日本の国家的な力を大陸へ運ぶ「帝国の装置」でもありました。近代的な技術や都市計画が展開された一方、それは日本の満洲支配と不可分でした。

1931年の満洲事変、1932年の満洲国成立を経て、満鉄は日本の大陸政策とさらに深く結びついていきます。1935年に満鉄総裁となった松岡洋右の時代には、満鉄は満洲国の経済開発と日本の大陸政策を支える国策会社として、ますます国家に近い存在となっていきました。

 

満洲から華北へ

1937年、日中戦争が全面化。戦線が華北へ広がると、鉄道は単なる交通網ではなく、戦争を継続するための生命線となります。北京、天津、石家荘、太原、済南。主要都市を結ぶ鉄道を確保することは、兵員や武器だけでなく、石炭、鉄、食料などを運ぶためにも重要でした。鉄道を掌握することは、占領地を維持し、戦争を継続するための条件でもあったのです。

ここで満鉄が華北へ進出。満鉄は天津に輸送部門を置き、北京に北支事務局を設けました。鉄道輸送だけでなく、華北の鉄鉱、石炭、塩、電力などを調査し、地域の産業開発にも関わりました。つまり満洲で培われた「鉄道を中心に資源を調査し、産業を開発し、地域を管理する」という仕組みが、華北にも展開されていったのです。

しかし、華北を満鉄が直接経営する構想は実現しませんでした。日本政府、軍、財界、現地政権などの利害が交錯する中、1938年に北支那開発株式会社が設立され、翌1939年、その傘下に華北交通株式会社が誕生します。

華北交通は満鉄そのものではありません。しかし、満鉄の北支事務局から人員や経験の一部が移り、満鉄で培われた鉄道経営、調査、技術の蓄積が華北へ引き継がれました。満洲から華北へ。鉄道技術者もまた、その線路とともに移動していきました。

祖父が担った「鉄道の神経」

その巨大な鉄道網の中に、祖父のような技術者がいました。祖父の専門は信号。鉄道の信号は目立ちませんが、列車が増えれば増えるほど重要になります。軍用列車、貨物列車、旅客列車。複数の列車を同じ線路で安全かつ効率的に動かすには、信号と通信による正確な管理が欠かせません。信号は、鉄道という巨大なシステムの神経網。祖父はその技術を扱い、さらに現地の中国人技術者に教えていたといいます。

祖父が教えていた技術は、鉄道を安全に動かすための純粋な専門技術でしが、その鉄道が置かれていたのは、日本による中国占領という現実。技術そのものは中立に見えても、それが組み込まれる国家や社会の構造まで中立だったわけではありません。一方で、技術は人から人へ伝わり、中国人技術者たちは技術を学び、鉄道を動かす側にもなりました。

「日本人対中国人」という単純な図式だけでは捉えきれない、技術者同士の仕事の日常があったはずで、戦争という巨大な構造は、こうした無数の職場の日常によって支えられていました。

  

鉄道のそばに暮らした子ども

そして、その鉄道のそばに母がいました。母は毎朝、北京城外の社宅から城内の日本人学校へ通っていました。学校には友達がいて、街には中国人がいて、家に帰れば家族がいました。それが母にとっての北京でした。華北交通アーカイブの写真(https://codh.rois.ac.jp/north-china-railway/)を見ると、そこには華北交通で働く人々の姿とともに、華北交通社員の家族、子供達、地元の中国人の暮らしが映し出されています。

華北交通は、鉄道、道路、河川・運河、港湾などのインフラ建設を担っただけでなく、人材育成や教育、広報にも力を入れました。その一方で、愛路運動や宣撫活動など、占領地の治安や住民統合を目的とした活動も行われました。鉄道は「生活を便利にするインフラ」であると同時に、占領地を統治する仕組みの一部でもあったのです。

  

1945年、線路の先にあったもの

1945年、日本が敗戦すると、それまで続いていた世界は一変します。華北交通は消滅し、日本人社会も崩れていきました。それまで当たり前だった学校も、住居も、生活基盤も失われます。満蒙開拓団で満州で農業開拓や研修を行っていた日本人が北京に逃げてきます。日本軍は解体し守ってくれる日本兵ももういません。母は家族とともに日本へ着の身着のまま引き揚げます。軍隊に召集された長兄はシベリア抑留となり、家族とは一緒に帰れませんでした。幼い母は船の上から日本の陸地が見えたとき、やっと涙がこみ上げたといいます。一人の子どもにとっての1945年、昨日までの生活が消え、暮らしていた場所を離れ、海の向こうにある「日本」へ帰るという経験でした。

 

一本の線路がつないでいたもの

祖父の仕事を調べ始めたことから、私は満鉄へたどり着きました。満鉄を調べると、後藤新平が現れます。その先には松岡洋右がいます。満洲事変、満洲国、日中戦争。そして満鉄の北支事務局から華北交通へ、人も技術も移っていきます。その巨大な鉄道網の中に、信号技師だった祖父がいました。そして、その家族として北京で暮らしていた母がいました。

一本の線路は、日本人家族にとっては生活の基盤、そして子どもにとっては、毎日列車が走っている風景だったかもしれません。しかし、同時に帝国の拡大と戦争を支える線でもありました。

一本の線路をたどっていくと、そこには近代化と帝国、技術と戦争、仕事と占領、そして日常と喪失が重なっています。線路は、過去へ続いています。

  

落下傘から紐解く日本近代技術史

東京滞在中、星薬科大学を訪ねるために歩いていた時、思いがけない会社の名前が目に入りました。「Fujikura」、聞き慣れない名前でした。すると一緒に歩いていた友人が、「落下傘を作っている会社らしいよ」と教えてくれました。現在では救命装備や宇宙開発にも携わる藤倉航装。「なぜ日本に落下傘メーカーがあるのだろう」という素朴な疑問。しかし調べ始めると、その先には第二次世界大戦の空挺部隊、そして戦後復興へと続く物語が広がっていました。

空から戦場を変えようとした時代

第一次世界大戦後、航空機の性能が急速に向上すると、「敵の正面から攻撃するのではなく、空から兵士を送り込み、敵の背後を制圧する」という新しい戦争の形が現実味を帯びてきました。先駆者はソ連でしたが、世界に衝撃を与えたのはドイツ軍でした。1940年、ドイツ軍空挺部隊(フォルシュルムイェーガー Fallschirmjäger)は、ベルギーのエバン・エマール要塞を奇襲し、1941年にはクレタ島へ大規模降下作戦を実施します。空から突然現れる精鋭部隊。その姿は各国の軍事関係者を驚かせ、日本、イギリス、アメリカも急速に研究を進めました。

 

D-Day:空を埋め尽くした落下傘

1944年6月6日。連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始します。しかし、海岸への上陸以前に、すでに空では巨大な作戦が始まっていました。数千機の輸送機が夜のフランス上空を飛び、アメリカ第82・第101空挺師団、イギリス第6空挺師団が降下します。彼らの任務は、橋を確保し、道路を遮断し、通信線を寸断して、海岸へ向かうドイツ軍の反撃を遅らせること。しかし、夜間降下は極めて危険でした。風、暗闇、敵の対空砲火によって、多くの兵士は予定地点から大きく外れて着地します。それでも彼らは小部隊ごとに再編成し、橋や道路、砲台を次々と制圧していきました。

空挺部隊だけを見れば、決して完全な作戦ではありませんでしたが、混乱を乗り越えながらも任務を果たし、海岸から進撃する地上軍と合流できたことが、ノルマンディー上陸作戦を支えました。

 

『遠すぎた橋』:空挺作戦の限界

その3か月後、連合軍はさらに大胆な作戦、マーケット・ガーデン作戦を実行。オランダの主要な橋を空挺部隊で占領し、一気にドイツ本土へ進攻する計画でした。参加兵力は約3万5千人。史上最大規模の空挺作戦でした。映画『遠すぎた橋』で描かれたアーネムの戦いでは、イギリス第1空挺師団が孤立してドイツ軍と戦います。作戦は失敗し、空挺部隊の限界を明らかしました。空挺部隊の最大の武器は、敵の予想しない場所へ突然現れる奇襲性にあります。飛行場、橋梁、要塞、司令部など戦略目標を一気に制圧し、後続部隊の進撃を助けることが本来の任務です。一方で、いったん地上へ降下すれば、兵士たちは軽火器しか持たず、戦車や重砲を携行することはできません。補給も空輸に頼らざるを得ず、悪天候や敵の制空権によって容易に遮断されます。そのため、地上軍が速やかに合流することが作戦成功の絶対条件でした。

 

落下傘は誰が作ったのか

では、日本で誰が落下傘を作っていたのでしょうか。1920年代、日本陸軍はヨーロッパで急速に発展していた航空技術に注目していました。航空技術の中心を担ったのは陸軍航空本部、陸軍航空技術研究所(立川)、東京帝国大学の航空研究者、中島飛行機・三菱重工の航空技術者です。1920年代の日本軍はアメリカのIrving Air Chute Company(アーヴィング社)の落下傘を輸入していました。日本最初の本格的な落下傘は、事実上アメリカ製だったのです。

1939年、陸軍から国産落下傘を大量生産できる会社を作れという要請を受け、1885年創業の電線メーカー藤倉電線を母体として藤倉航空工業が設立されました。落下傘は単なる布ではなく、高品質の絹を使用し、その布を均一に織り、何百本もの索(ライン)を正確な長さで製作し、人命を預かるハーネスを縫製する高度な技術が必要でした。藤倉には、もともと電線を絶縁するための繊維加工やゴム加工の技術がありました。そこへ製糸、織物、帆布、縫製など各分野の技術者が集まり、日本独自の落下傘製造が始まります。設計思想にはドイツ空挺部隊の影響が見られる一方、日本は世界有数の生糸生産国だったため、高品質のシルクという独自の強みを生かしました。

落下傘事故の多くは、布が破れるのではなく、縫い目、索(ライン)の接続部、ハーネス金具で起きます。藤倉航空工業では、多重縫製、荷重分散縫製を研究し、折り畳み技術も開発しました。

藤倉航空工業は陸軍・海軍双方の落下傘製造を担いました。山辺雅夫著『海軍落下傘部隊』を読むと、落下傘技術は設計室だけで生まれたものではなく、現場の隊員と技術者が何度も改良を重ねながら完成させていったことがよく分かります。空挺部隊では、降下訓練そのものが命懸けでした。開傘の遅れや着地の失敗による死傷事故も起こり、そのたびに隊員たちは原因を分析し、ハーネスや索(ライン)、縫製方法、折り畳み方などについて藤倉航空工業へ具体的な改善を求めました。メーカー側も現場から寄せられた報告をもとに改良を重ね、再び訓練で検証するという過程を繰り返します。同書には、このような現場と技術者の密接なやり取りが克明に描かれており、日本の落下傘が実地訓練を通じて完成度を高めていったことが伝わってきます。

落下傘から宇宙へ

戦後、多くの航空機メーカー部門は閉鎖されましたが、藤倉航空工業は1945〜1950年救命胴衣、救命ボート、防水布、漁業用浮具といった民生品、安全装備メーカーへ転換しました。

1950年 、朝鮮戦争で米軍は日本を兵站基地として利用し、救命装備、パラシュート補修、航空安全装備を日本企業に発注しました。藤倉はここで、米軍規格(MIL規格)を学びます。米軍規格を満たすには、強度試験、開傘試験、品質管理、トレーサビリティが必要でした。つまり戦前の「職人品質」から、統計的品質管理を行う近代工業へ脱皮したのです。1954年に自衛隊が発足すると、国産装備が必要となり、国は空挺降下傘、予備傘、物料投下傘の開発を民間企業委託し、国産唯一の落下傘メーカーとして藤倉は安定受注を受け、会社は本格的に復活します。

落下傘技術は「高速で移動するものを安全に減速し、目的地点へ導く技術」として、航空機救命装置、海上救命装備、宇宙機回収システムへ発展しました。宇宙から帰還する探査機も、大気圏突入後には速度を制御し、最後はパラシュートによって安全に着地します。戦場で兵士を支えた技術は、現在では宇宙から帰還する探査機を守る技術になっています。JAXAの宇宙機回収技術、高高度気球、航空安全装備などに、長年培った繊維・縫製・展開技術が応用されています。

 

結び:星薬科大学への道で見つけた20世紀の技術遺産

星薬科大学へ向かう途中で偶然見つけたフジクラ。そこから始まった小さな疑問は、D-Dayの空、マーケット・ガーデン作戦、日本の空挺部隊、堀内豊秋、そして宇宙開発へとつながりました。

落下傘とは、単なる軍事装備ではありません。山辺雅夫『海軍落下傘部隊』は、華々しい奇襲作戦の陰で、数え切れない訓練と実地試験が繰り返され、多くの負傷者や犠牲者を伴いながら装備が改良されていった過程を克明に描いています。現場の隊員たちの経験は藤倉航空工業へと伝えられ、ハーネスや縫製、索(ライン)の構造などが改良されていきました。落下傘は一枚の布ではなく、兵士たちの経験と技術者たちの知恵が何度も往復する中で育て上げられた技術だったのです。

それは、人間が空という未知の領域へ挑戦した歴史であり、日本の繊維技術、工業技術、安全工学が積み重なった結晶でもあります。戦場で兵士の命を支えた技術は、戦後には救命装備へ、さらに宇宙から帰還する探査機を安全に着地させる技術へと受け継がれていきました。

星薬科大学へ向かう道で出会った一つの会社の看板。その偶然の出会いからたどった一本の「糸」は、戦場で命を懸けた兵士たちの勇気と犠牲、そして彼らの経験を受け止めて技術を磨いた技術者たちの努力によって紡がれ、やがて救命装備や宇宙開発へと受け継がれていった日本近代技術史の軌跡でした。

國學院大學博物館で考えたこと:神と仏、制度と民間、その間に生き続けた日本人の宗教感覚

先日、友人と國學院大學博物館を訪れました。想像以上に充実した展示に驚き、長い時間を過ごしました。入口横には箱式石棺が何気なく置かれ、マスコット「こくぴょん」が埴輪と共に迎えてくれます。

考古、神道、校史の常設展示を順に見て感じたのは、日本の宗教史は神道と仏教が別々の道を歩んできた歴史ではなく、両者が重なり合い、ときには境界を行き来しながら形作られてきたのではないかということです。

そこに見えてくるのは、単なる「神仏習合」という言葉だけでは語り尽くせない、人間が目に見えない存在とどのようにつながってきたのかという、日本独自の宗教感覚です。

 

古代の神:人間の外にいるのではなく、人間の生活とともに存在するもの

古代の祭祀を示す展示を見ながら印象づけられたのは、初期の神々が必ずしも神殿の中に祀られていたわけではないということ。山、森、岩、泉。そこには、人間の力を超えた生命の働きが宿ると考えられていました。

例えば三輪山では、山そのものが神聖な存在であり、人間は神を像として表現するより、神が宿る場所との関係を大切にしました。神を人間世界から完全に隔離された存在として見るのではなく、特定の時と場所において人間の世界へ現れる存在として理解する感覚があります。後に折口信夫が「まれびと」と呼んだ「訪れる神」の思想は、このような古代の宗教感覚の延長線上にあります。

神仏習合:日本人は異なるものを排除せず、関係を作った

仏教が日本に伝来した時、日本社会は大きな宗教的変化を経験します。しかし、日本人は仏教を受け入れる際、古い神々を否定する道を選びませんでした。むしろ、「仏の世界と日本の神々はどのような関係にあるのか」という問いを生み出します。その答えの一つが神仏習合です。神は仏が日本に現れた姿であると理解され、神社と寺院は長い間共存します。これは単純な融合ではなく、仏教は宇宙論、修行体系、死後世界の理解を提供し、一方、神々は土地、祖先、自然との結びつきを担います。

異なる宗教的原理が緊張関係を保ちながら共存したところに、日本独自の宗教文化が形成されました。

民間信仰に残る記憶:田の神が示すもの

展示を見ながら、制度化された宗教だけでは日本人の信仰を理解できないことにも気づきます。その代表が田の神です。田の神は立派な神像というより、農民の姿をした親しみやすい存在。笑顔を浮かべ、しゃもじを持ち、ユーモラスな表情をしています。

その姿の奥には古い宗教観が残っています。田の神は単に農作物を守る神ではなく、山から里へ降り、田を育て、収穫が終わると再び山へ帰る存在として考えられました。つまり、自然界と人間社会をつなぐ役割を持っていたのです。村境や田の畔、水の流れが変わる場所に祀られたことも、その性格を示しています。人間の生活圏と、その外側の世界が接する場所に神が置かれたのです。

吉田神道:神道を体系化した思想の中にも仏教的世界観が流れていた

中世になると、神道は単なる祭祀の伝統から、思想体系として整えられていきます。その例が吉田神道です。興味深いのは、吉田神道が神道の独自性を主張しながら、その思想形成には密教や陰陽思想の影響が深くあったことです。

「三元三行三妙加持」という思想は、その特徴をよく示しています。天地人という宇宙的な関係の中で、人間は単なる観察者ではなく、神聖な秩序に関わる存在として位置づけられます。神と人間の関係は一方向ではなく、人間もまた修行や実践を通して神聖な力と結びつく可能性を持ちます。この考え方は、後の日本の宗教思想にも少なからず影響を与えたと考えられています。

黒住教:制度の神道から、一人ひとりの内なる神へ

江戸時代の終わり、日本の神道世界には新しい潮流が生まれます。その代表の一つが黒住教。黒住宗忠は、病から回復する中で天照大神との深い一体感を経験し、人間の生命そのものに神の働きが宿ると説きました。

興味深いのは、神が神社や祭祀だけに存在するのではなく、一人ひとりの心と日々の営みの中にも現れる存在として語られたことです。制度としての神道から、人間の内面的な宗教体験へ、黒住教は、その新しい可能性を示しました。

しかし、その歩みは既存の神道世界と切り離されたものではありませんでした。当時の神道界では吉田家が神職や神道活動を認証する権威を持ち、黒住教も神道裁許状を受けることで社会的な位置づけを得ていきます。

新しい信仰は古い制度を否定するのではなく、その枠組みの中で認められながら広がっていきます。ここにもまた、日本の宗教文化に特徴的な「対立ではなく共存」という姿を見ることができます。

明治維新:重なり合う宗教世界を「分ける」という近代

明治維新は、日本の宗教文化に大きな転換をもたらしました。それまでの日本では、神社と寺院、神と仏は、人々の暮らしの中で自然に重なり合っていました。神社で祭りを行い、寺で祖先を供養することに矛盾はなく、異なる信仰は互いを補い合うものとして受け入れられていました。

ところが、近代国家の建設を進める明治政府は、西欧的な制度を取り入れる中で、宗教を明確に分類する必要に迫られます。神道は国家祭祀、仏教は宗教という枠組みがつくられ、神仏分離が進められました。

それは神社と寺院を分ける政策であると同時に、長い年月をかけて育まれてきた重層的な宗教世界を、近代国家の制度に合わせて整理し直す試みでもあり、その過程で廃仏毀釈によって多くの文化財が失われました。しかし、人々の信仰そのものが消えたわけではありません。

田の神や道祖神、来訪神への信仰は、制度の外側で暮らしとともに受け継がれていきます。国家は宗教を分類できても、人々が神と結んできた関係まで完全に分類することはできませんでした。

展示を通して見えてくるのは、日本の宗教史とは「神道」と「仏教」が対立してきた歴史ではなく、制度が境界を引こうとする一方で、人々はその境界を行き来しながら信仰を育んできた歴史なのだということです。

 

折口信夫が見つめた「境界」の宗教文化

國學院大學博物館に再現された折口信夫の箱根の書斎を前にすると、そこは学者の研究室というより、日本人の宗教文化について思索を深めた静謐な空間のように感じられます。

折口が見出した「まれびと」は単なる来訪神ではありません。人間と神、此岸と彼岸、共同体の内と外、生と死、そうした境界を越えて訪れ、人々に新たな生命力をもたらす存在でした。その背景には、折口自身の人生経験もあったのかもしれません。若き日に共同生活を送った僧侶・藤無染、そして晩年に養嗣子とした教え子・藤井春洋という、深い精神的なつながりを持った二人を失った経験は、折口に生と死、現世と異界との境界について、より深い問いを投げかけたようにも思われます。

だからこそ彼は、制度としての宗教だけではなく、祭りや民間信仰の中に息づく「訪れる神」の姿を追い続けました。今回、博物館を歩きながら印象に残ったのも、日本の宗教は一つの教義や制度によって形づくられてきたのではなく、異なる世界の「あいだ」を行き来しながら育まれてきたということです。

古代の自然祭祀、神仏習合、田の神や来訪神の民間信仰、吉田神道、黒住教、そして明治の神仏分離。そこには対立よりも共存があり、排除よりも重なりがありました。

折口信夫が追い求めた「まれびと」の思想は、そうした日本人の宗教文化の深層を映し出す一つの鍵なのかもしれません。國學院大學博物館は、神と仏、制度と民間、自然と人間、その「あいだ」に育まれてきた日本人の精神文化を静かに考えさせてくれる場所でした。

MKウルトラ計画とは何だったのか:2026年の米下院公聴会が問い直したCIA極秘研究

2026年6月30日、米下院で「マインドコントロールと説明責任: CIAのMKウルトラ計画の真実を暴く(Mind Control and Accountability: Uncovering the Truth of the CIA's MKULTRA Project」と題した公聴会が開かれました。https://oversight.house.gov/release/hearing-wrap-up-declassifying-information-is-important-for-preserving-public-trust/

その背景には、米国で近年進められている政府機密文書の公開があります。ケネディ大統領暗殺をはじめとする歴史的事件の記録について機密解除と情報公開をさらに進めようとする動きの中で、半世紀以上前のCIA秘密計画であるMKウルトラも改めて検証の対象となりました。

MKウルトラ計画そのものは1970年代の議会調査によって存在が確認され、CIAも計画の実施を認めました。その一方、人間の意思を自由に操るような技術を確立するには至らず、計画は終了したという立場を示しました。しかし、1973年には関連文書の大部分が廃棄されたため、実際にどのような研究がどこまで行われ、何が成果として残り、何が失敗だったのか、その全体像はいまなお明らかになっていません。今回の公聴会で問われたのは、まさにその「歴史の空白」を、残された資料や証言からどこまで埋められるのかという点でした。

1.MKウルトラ計画とは

MKウルトラは1953年に始まったCIAの極秘研究です。第二次大戦後、アメリカはペーパークリップ作戦によって数多くのドイツ人科学者や技術者を極秘裏に受け入れました。一般にはロケット開発で知られる技術者たちが有名ですが、その中には航空医学や化学・生物兵器研究に携わった研究者も含まれていました。ナチス時代の研究成果や人的ネットワークが、そのままMKウルトラに引き継がれたと単純化することはできませんが、戦時中に得られた科学知識を冷戦期の安全保障研究に取り込むという考え方は、戦後アメリカ政策の特徴の一つでした。

その頃、世界は急速に冷戦へと向かい、1949年にはソ連が核実験に成功、中国では共産党政権が成立、さらに朝鮮戦争では一部の米兵捕虜が思想転向して帰国したことから、「敵は人間の心を操作できるのではないか」という危機感がアメリカ政府に広がっていました。

このような時代背景の中で、CIAはまずブルーバード計画、続いてアーティチョーク計画を立ち上げ、催眠、薬物、尋問技術、記憶操作などの研究を進めます。そして1953年、それらを統合・拡大する形でMKウルトラ計画が誕生します。

 

2.冷戦が生んだ数々の極秘計画

MKウルトラは一つの組織で行われた計画ではなく、CIAが利用した民間財団を通じた研究ネットワークで行われました。1977年の議会調査では、149のサブプロジェクトが、185人の研究者80の研究機関を通じて実施されていました。その内訳は、44の大学、15の研究財団や製薬・化学会社、12の病院・診療所、3つの刑務所に及び、研究はアメリカ国内だけでなく海外にも広がっていました。特に知られているのが、カナダのマギル大学で精神科医ドナルド・キャメロンが行った、記憶の消去や人格の再構築を目指す「サイキック・ドライビング」研究です。

多くの大学や研究者は、自らがCIAの研究に参加していることを知りませんでした。CIAは「人間生態調査協会(Society for the Investigation of Human Ecology)」や後継のHuman Ecology Fund、さらにゲシクター医学研究基金(Geschickter Fund for Medical Research)などの民間財団を隠れ蓑として研究費を提供し、資金の出所を秘匿していたためです。

この広範なネットワークの中では、LSDや催眠、感覚遮断、記憶、尋問技術など人間の行動変容に関する研究が進められたほか、同時期にはMKナオミ(生物・化学兵器研究)やミッドナイト・クライマックス作戦(無断LSD投与実験)なども展開されました。

3.ゴットリーブ、ウェスト、そしてマンソン事件

MKウルトラに関わったCAI責任者の一人にシドニー・ゴットリーブがいます。化学者だったゴットリーブは、1950~60年代にCIA技術サービス部(Technical Services Staff)の責任者として、MKウルトラ計画を実質的に指揮し、LSDを用いた行動変容研究や毒物・生物化学兵器の開発にも関わっていました。

今回の公聴会ではジャーナリスト、トム・オニールが、ゴットリーブと精神科医ルイス・ウェストとの往復書簡を紹介しました。ウェスト博士はLSD研究に関わっただけでなく、ケネディ大統領暗殺事件後、オズワルドを射殺したジャック・ルビーの精神鑑定を担当し、1960年代にはサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区で若者文化や薬物の研究も行っていました。

マンソン・ファミリーが活動した地域とウェスト博士の研究活動には地理的・時期的な重なりがあり、マンソンが信者を心理的に支配した方法と、MKウルトラで研究された行動変容の手法との類似性も指摘されています。しかし、マンソン事件とCIA計画の直接的な関係を示す証拠は確認されておらず、今回の公聴会でも「CIAの関与に関し更なる資料の公開と検証が必要な課題」として位置づけられました。

4.公聴会では何が議論されたのか

今回の公聴会は少し不思議な構成でした。共和党側は、MKウルトラ研究の専門家であるスティーブン・キンザーやトム・オニールを証人に招き、冷戦期のCIA文書や情報公開、政府の説明責任を中心に議論を進めました。一方、民主党側が推薦した元国立衛生研究所(NIH)研究者エリザベス・ジネクシは、MKウルトラそのものではなく、現在の研究費削減や科学政策について証言。その結果、公聴会ではCOVID-19への対応やNIHをめぐる議論も展開され、論点が大きく逸れる場面もありました。

アメリカ議会では多数派・少数派の双方が証人を推薦できる制度があり、公聴会でそれぞれが重視する問題意識を持ち込み、政治的なメッセージ発信に利用することも珍しくありません。

その意味で、この公聴会は単なる「MKウルトラの検証」ではなく、「政府はどこまで秘密を持つことが許されるのか」「政府機関はどのように説明責任を果たすべきか」という、より広いテーマを映し出す場ともなったのです。

5.歴史の空白が問いかけるもの

国家は安全保障という名の下で、どこまで人間の心や情報に介入することが許されるのでしょうか。今回の公聴会は、MKウルトラのすべての謎を解き明かしたわけではありません。しかし、失われた記録、公開された資料、そして残された証言を通して、歴史を検証し続けることの重要性を改めて示しました。

半世紀以上前に始まった秘密計画が、2026年になってもなお議会で議論されるのはなぜなのか。それは、単に過去の出来事を振り返るためではなく、国家権力と市民社会の関係、そして政府の透明性について、現在にも通じる問いを投げかけているからです。

今回の公聴会は、「透明性」と「説明責任」が民主主義にとってどれほど重要であるかを、改めて私たちに問いかけています。