東京滞在中、品川区にある星薬科大学を訪ねました。静かな住宅街の中にあるキャンパスには、歴史を感じさせる大講堂や博物館、植物園があります。東京の街の中にありながら、どこか異国的な雰囲気を持つ空間でした。

星薬科大学の創立者・星一について、息子である作家・星新一が書いた二冊の本があります。読み進めるうちに、明治から昭和へ向かう時代に、若くしてアメリカへ渡り、そこで青春を過ごした星一が、帰国後の日本で何を実現しようとしたのかに興味をもつようになりました。

アメリカで見た「新しい社会」
星新一が父・星一を描いた『明治・父・アメリカ』には、若き星一がアメリカで過ごした日々が描かれています。
福島県の農村から上京して苦学した星一は、1894年、20歳で単身アメリカへ渡ります。貧しさの中で住み込みで働きながら英語を学び、行商や翻訳で大学の学費を稼ぐ。克己心と周到な計画で一つずつ困難を乗り越え、やがてコロンビア大学で政治経済学の修士号を取得します。
さらに新聞事業を起こし、『ジャパン・アンド・アメリカ』を創刊。人脈を広げ、新しい知識や思想を吸収しながら、自分で次の道を切り開いていきました。
星一が見たのは、当時の日本とは異なる社会の姿でした。身分や出自だけではなく、個人の能力と行動によって道を切り開くこと。自分で考え、人とつながり、新しいことに挑戦すること。そして、科学や知識を実業へ結びつけていくこと。
明治維新から半世紀も経っていない日本も、欧米の制度や技術を急速に取り入れていました。しかし、制度が近代化しても、人間関係や組織のあり方まで一気に変わったわけではありません。
アメリカで身につけた合理的な考え方や自由な発想を日本に持ち帰った星一は、帰国後、さまざまな壁にぶつかります。
「アメリカではできるのに、なぜ日本ではできないのか」
星一の生涯を追っていると、そんな思いが、次第に強くなっていくのが見えてきます。

星製薬:薬を「産業」に
1905年にアメリカから帰国、星一が次に挑んだのが製薬事業でした。薬は人の生命に直接関わります。しかし、近代的な製薬業をつくるには、薬を仕入れて売るだけでは足りません。科学研究、製造設備、品質管理、販売網、そして、それを支える人材が必要です。
星一は、薬を単なる商売ではなく、科学と産業を結びつける事業として発展させようとしました。当時の日本では、まだ先進的な発想でした。
そして、星一は人を育てることにも力を注ぎます。自分一人の才覚で事業を大きくするのではなく、科学を学んだ人材を育て、日本の薬学そのものを底上げしようとしたのです。後の星薬科大学につながる教育への情熱も、ここから生まれていきます。
そんな星一の溢れるエネルギーと先進的な考えに共鳴し、支援する人物がいました。後藤新平です。

星一と後藤新平
後藤新平は、台湾総督府民政長官として台湾統治に関わり、その後、南満洲鉄道、いわゆる満鉄の初代総裁となった人物です。前回は、鉄道を通して日本の大陸進出を見ました。しかし、後藤新平を「鉄道の人」とだけ捉えると、その人物像の一部しか見えてきません。
後藤の出発点には、医師としての経験がありました。衛生、医療、都市計画。人間の身体と、それを取り巻く社会環境を、科学と技術によって改善していこうとする発想です。台湾では衛生行政や都市インフラの整備に取り組み、その経験を満鉄での都市建設や産業政策にも広げていきました。
一方、星一は薬を通して科学と産業、人材の育成を考えました。後藤新平が衛生や都市、鉄道を通して社会そのものを設計しようとしたのに対し、星一は製薬という産業を通して、日本に科学と合理的な経営を根づかせようとした人物だったともいえます。
一見すると異なる二人ですが、そこには「科学と合理性によって、日本社会を変えていく」という共通する思想が見えてきます。そして、この二人を考えるとき、避けて通れない場所があります。台湾です。

台湾のアヘン専売という現実
1895年、日本が台湾を統治するようになると、アヘンは重要な統治課題となります。
台湾総督府はアヘンを専売制のもとに置き、許可を受けた者にだけ販売する制度を導入します。表向きの目的は、アヘンを一気に禁止するのではなく、管理しながら徐々に使用を減らしていくことでした。しかし、そこにはもう一つの現実がありました。
アヘン専売は、台湾総督府にとって大きな財源にもなったのです。つまり、「人々の健康を管理する」という衛生政策と、「国家が薬物を管理して利益を得る」という財政政策が、同じ制度の中に存在していました。
ここに、後藤新平が進めた「科学的な統治」の複雑さがあります。衛生も、医療も、薬も、そしてアヘンさえも、国家が管理する対象になっていったのです。薬は、人を救うものですが、国家が薬を管理すると、それは政治にも、産業にも、財政にもなります。
そして台湾で行われたこの政策は、後の日本の製薬産業を考えるうえでも、無関係ではありませんでした。
星一がぶつかった日本
星一がアメリカから持ち帰ろうとしたものは、科学を重視すること、人を育てること、合理的に経営すること、そして新しい産業をつくることでした。しかし、それらは帰国した日本で、必ずしも素直に受け入れられたわけではありません。
官僚、政治家、財界、そして既存の人間関係。さまざまな力が絡み合う日本社会の中で、星一の合理的な発想や自由な行動は、ときに大きな摩擦を生みました。
星新一の『人民は弱し官吏は強し』を読むと、星一が官僚や財界との対立に巻き込まれ、何度も窮地に追い込まれていく姿が浮かび上がります。アメリカで学んだ「合理的に考える」という姿勢が、そのまま日本で通用するわけではなかったのです。
しかし、ここで一つ、さらに複雑な問題が浮かび上がります。星一は、すべての官僚や既存勢力から孤立していたわけではありません。むしろ、後藤新平との深い関係が、星一の人生に大きな影響を与えていました。

後藤新平と星一
星一は、同じ東北地方の出身であることなどを背景に後藤の知遇を得ました。また、後藤の盟友である杉山茂丸の書生をしていた時期があり、そうした人脈を通して後藤とのつながりを深めていったとされています。後藤新平が持っていた政治的・行政的な影響力は、星一が製薬事業を進めていくうえで大きな支えとなりました。
しかし、そのことが逆に星一を政治的な対立の中へ巻き込んでいくことになります。
星新一は『人民は弱し官吏は強し』の中で、星製薬が政界や官僚との対立に巻き込まれ、企業活動を妨害された経緯を描いています。
そこでは、後藤を支持する勢力と、後藤に反発する勢力との対立が、星製薬をめぐる問題にも影を落としていました。さらに星新一は、内務省には東京帝国大学出身者を中心とする強い学閥が形成されており、後藤も星もその学閥に属していなかったことが一因だったと説明しています。
学歴、官僚組織、政治的人脈、財界、そして個人の能力。近代日本では、それらが複雑に絡み合っていました。そして、その複雑さをさらに深く考えさせるのが、台湾のアヘン問題です。

台湾阿片事件
台湾のアヘン専売を調べていくと、後藤新平と星一の関係について、さらに別の側面が見えてきます。台湾出身の歴史学者・劉明修は、著書『台湾統治と阿片問題』の中で、台湾総督府のアヘン専売と星製薬をめぐる問題を詳しく論じています。
劉の研究によれば、台湾総督府はアヘン専売収入の増加を図るため、アヘン吸食者に販売する阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘に減らし、より高濃度の阿片煙膏を販売するという政策を行ったとされています。
そして、その秘密を維持するため、総督府専売局が、星製薬以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒否したことが、後の「台湾阿片事件」につながったと劉は論じています。
星製薬をめぐる問題は、単なる一企業と官僚組織との対立ではありませんでした。台湾総督府の専売政策、製薬業界、後藤新平の政治的影響力、星製薬、そして政界内部の対立。それらが複雑に絡み合っていたのです。
「科学的統治」の光と影
ここまで見てくると、最初に考えた後藤新平と星一の共通点が、少し違った姿に見えてきます。二人とも、科学や合理性を重視しました。後藤は衛生、医療、都市計画、鉄道を通して社会を変えようとしました。星一は製薬、科学教育、人材育成、企業経営を通して日本を変えようとしました。
しかし、科学や合理性は、誰がそれを管理するのか、何のために使うのか、そして、その利益を誰が受け取るのか。台湾のアヘン専売を考えると、その問いが突きつけられます。衛生政策としてアヘンを管理することと、専売によって国家が利益を得ることは、同じ制度の中に存在しました。そして、その制度の中に製薬企業も組み込まれていきました。
科学は社会を近代化する力になります。しかし同時に、国家が人間の身体や薬物を管理するための強力な道具にもなり得ます。後藤新平を「近代化の功労者」とだけ見るのでも、「植民地支配の官僚」とだけ見るのでも、この人物の全体像は捉えきれないのかもしれません。
星一についても、科学と合理性を信じ、新しい製薬産業を築こうとした一方で、その事業は政治、官僚、専売制度、そして植民地台湾との関係から切り離すことができませんでした。星一の人生を追っていくと、一人の実業家の波乱万丈な人生だけではなく、近代化を急いだ日本が抱えていた矛盾そのものが見えてきます。
「近代化」とは何だったのか
台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任した後藤新平。製薬産業を育てようとした星一。二人を並べてみると、植民地、鉄道、都市計画、薬、衛生、教育という一見別々のものが、一本の線でつながってきます。
鉄道は人と物資を運び、薬は生命を支え、衛生は人と都市を変え、教育はそれを担う人材を育てます。明治以降の日本は、こうした「近代化の装置」を次々につくっていきます。しかし、その近代化は日本国内だけのものではありませんでした。台湾、満洲、中国大陸へと広がる日本の勢力拡大とも、深く結びついていました。
星薬科大学を訪ねたことから始まった今回の旅は、いつの間にか一人の実業家の人生を越えていました。星一は、科学が社会を変える力になると信じ、野口英世を支援し、第一次世界大戦後にはドイツの科学者たちにも私財を投じて援助しました。その中には、ハーバー・ボッシュ法を生み出したフリッツ・ハーバーもいました。しかし、野口もハーバーも、科学の「光」だけを体現した人物ではありません。野口の研究には後世から見て議論のあるものがあり、ハーバーは人類の食料生産を大きく変えた一方、化学兵器の開発にも深く関わりました。
『人民は弱し、官吏は強し』の解説で、後藤新平の孫である鶴見俊介は、星一についてこう書いています。「十九世紀の米国では、アイデアを自由市場に出し、そこで勝ちぬくものがよいという考えによってある程度生きることができたのかもしれない。しかし、日本にもってきて米国ゆずりのその信念によって生きようとしたところに、星一のくいちがいがあった。」
アメリカで見た「近代」を、日本という社会の中でどう実現するのか。そこには、個人の自由な発想と組織の論理、科学と政治、民間の力と官僚制度という、今にも続く問題があります。前回は「鉄道」という線路をたどりました。今回は、「薬」というもう一つの線路です。その先にもまた、近代化と帝国、科学と政治、理想と現実が交差しています。
